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会田誠は児童ポルノか

01 31, 2013 | 雑記

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根本的に現在の日本のアイドル文化はロリコン的である。それは少女という観念が、引きこもりの奴隷たりえる無垢さを備えているためであろう。極めて支配的・暴力的である。だが、このことは見過ごされがちだ。一方で、その男性の女性に対する支配・暴力性を全面にわかりやすく表した会田誠は避難を浴びている。
最近話題の「犬」である。確かに観ていて気持ちの良い絵ではない。しかし、私はどこか惹かれてしまう。これは多くの男性が、あるいは女性も否定できない事実であろう。そして何より、この絵は会田誠の欲望の産物であるということに留意したい。
「犬」という明確に不愉快な絵を前にした時、同時に私たちは自らの不愉快な欲望を発見するのだ。そして、不愉快なものと向かい合うことを余儀なくされる。私が思うに、会田誠は逆説的にフェミニストである。彼は男性的な支配と暴力をむしろ暴いているのだと言える。
会田誠をただの変態趣味の人間として片付けたくはない。彼は、普通誰もが自分に認めたくはないような醜悪な欲望を明らかにし、芸術として公表している。批判は容易に想像できるにもかかわらずだ。
個別の事例を批判することで、ただ見たくないものを隠しているだけなのではないかと思う。今回の会田誠批判もそうだが、いじめや体罰の問題などについても同じだ。人間の中にある醜悪さ自体と向き合わずに、その発露、表出にだけ目をやる。それでは終わらないモグラ叩きではないか。
まずは、醜悪さを認めるところから始め、リアリスティックに対処法を探らなければならない。



http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement/
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摩耗する花火

08 07, 2012 | 雑記

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闘うことなくただ従順にあったのでは、管理はますます厳しくなり、あるべき自由すら奪われてしまうことは明らかだろう。現に北大の文系棟では、学生は基本的に講義以外で教室を利用することができない。仲間で少し集まったり、ゼミを開いたりすることも許されていないのだ。

それにしても、今回は少し違う。花火をしていたことを注意されはしたが、あの警備員は事実上許可を出したようなものだった。目をつむると言ったのだ。
にもかかわらず、そんな些細なことに、学生は「ひよった」のだ。
逆らったら大変なことになるかもしれない。(この程度ではならないが。)
ここは大学だ。学生が花火をして何が悪い。あんなところで多少騒いだって誰も迷惑はしないし、小火も出まい。

法律で定められていても、行政の裁量によって、事態が先鋭化されることが防がれるという場合がある。これは非常に重要な機能だ。世の中におこることをいちいち原理主義的に裁いていたのでは息苦しくてしょうがない。
今回もそのケースで、大学とて花火程度のことをいちいち取り締まるつもりはないのだろうと思う。たとえ規則では禁止されていても、だ。

なのに、学生がひよる。
こんなことしたらダメかもしれない。あんなことするのもダメかもしれない。なんて思いを巡らせ、自分自身をどんどん不自由にしていく。自分で自分を管理し、制限していく。
結果的にのこる自由とは何か。それは消費者的選択のみである。許され、提供されるものの中から選ぶことだ。

大きな勘違いがあるのではないか。
私たちは許されているからそれをするのか?
椅子に座ること、酒を飲むこと、くしゃみすること、考えにふけること。これらは許されたからなされるのか?
違う。これらはただ禁止されていないのだ。禁止されていないからするのだ。

萎縮してはならない。いいのかどうか判らないなら、とりあえずやってみて、怒られるかどうか試せばいい。ついでにちょっとぶつかって、その規則が無意味なものでないか吟味すればいい。なんの根拠もない規則なら、それはただ自由を奪うだけなのだから、廃止するように求めるのだ。

情けない。
保身に必死な自称ネオリベラリストは今後のキャリアと今ここで花火を強行することを秤にかけ、今後の人生のほうが重いと主張した。そりゃあそうだろう。だが、そもそもそんな単純な秤の使い方が乱暴にすぎるのではないか。
こんな単純で乱暴な思考法を疑問も抱かず用いる奴は、同じように単純な考え方で弱者を虐げることを厭わないだろう。要は、これだから自称ネオリベラリストなんかになるのである。
議論をふっかけてやろうかと思ったが、そうしなかった。これは大人な自制心か、あるいは関係や空気を崩してしまうことに、俺がひよったのか。どっちだろう。

ともかく、疲れる。めんどくせぇ。

ゆるい革命がおこればいい

08 07, 2012 | 雑記

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2時間であわてて書いたレポート(?)
「いやぁ、名文だよ、小川君ww」
といって誉めて頂いた。しかし、それにしてもつっこみどころ満載。


貧困は政府による再分配によって是正されるべきであろう。
経済的な豊かさは彼らの努力によるものなのだから、それを奪い、貧しい人々に還元するのは不当だという人がいる。それも道理であるかもしれない。しかし、豊かな人たちの注いできたという努力が報われるために、貧困は必要なのであろうか。
豊かさは相対的な観念であるから、一方に貧しさがなければ成り立たたない。そして努力というものが報われたといえるのは豊かさを手にした時である。
一生をかけても、とても使いきれないような富を手にする人々がいる。その一方で貧しさのあまりに死んでゆく人々がいる。格差の幅を制限することで、少なくともそれによって死ぬ人がないようにすることくらいはべつにかまわないではないか。すべての人間の収入を均一化すると言っているわけではないのだから、それでもまだ十分に豊かさを味わえるであろう。また、貧困にあえぐ人々がいない世界を理想とすること自体に反対する人間はそうはいないと思う。

私自身は収入などは均一であればよいと思っている。もし本当に努力に応じただけの報酬が与えられるというのなら結構だが、そういうようにはなっていない。アメリカン・ドリーム的な発想はどこかの金持ちが貧乏人どもに植え付けた幻想なのではないかと疑っているが、そうだとすると、その取り組みは功を奏したようで、私の周りには頑張っていれば報われると信じている裕福とは言えない人が沢山いる。
そして実際、信じている人たちは、とりあえず手近にあることを本当に頑張っていたりする。たとえば時給も教えてくれない派遣会社に土日もなくこき使われたり、給料からよくわからない税金みたいなものを差し引かれたりしている。(こんな安いアルバイトに所得税などかかるはずがない。)また、彼らにはモラルが備わっているから、ろくに文句も言わないのであった。
いつか報われるのだろうか。

先ほどは収入などは均一であればよいと簡単に言ってしまったが、現実的にはそれは難しいだろう。倒さなければいけない敵が多すぎるし、倒せたとしても、そんな仕組みがうまく回るのかどうか疑問もある。だが、ブラックなバイトの愚痴を聞くのも嫌だし、どこかの社長の成功話を自分のことのように語る奴には革命的鉄槌を下したくなる。
なにか、価値観の変化がおこればいい。
現在、たくさん稼いでる奴が偉いというような価値観のなかに多くの人が生きている。彼らがもっと別な尺度を中心に据えたなら、世の中は変わるだろう。
「ちゃんとしたひと」になるために意識の高い学生達は、場合によっては2年生から、就職活動をはじめているらしい。とりあえずこういうのがいなくなる。そして企業は高飛車な態度を改める。また、代わりにプータローが増える。大通りには裸で抱き合うヒッピーが出現し、秋葉原は栄華を極める。社会補償がパンクする。政府が意味を失う。若者はとりあえず食っていける程度の労働をはじめる。たぶん自営業も増える。読売の社長はただの金持ちのジジイになり、次第に物理的な投石を受ける存在になる。このとき既に金持ちはダサい存在だ。
このあとどのような問題が生じるのかは知らない。どのような問題が解決されるのかもわからない。でも、こうなったら面白い。
同じ土俵で闘うのをやめれば、ゆるい革命が可能なのではないかと思う。価値観の変化は、起こすというより起こるものである。現在、それは徐々にはじまっていると思うのは私だけだろうか。
貧困の問題も、そこに陥った人が卑屈になってしまうというのが抜け出せない原因のひとつであろう。声もあげられなくなるほどに自分を卑下する必要は全くないのである。別な尺度で自分を測れたなら、卑屈にはならないかもしれない。「金をよこせ!」と叫べばいい。そうしたなら、だれも助けてくれないということもないだろう。

ジャズ

07 18, 2012 | 雑記

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等間隔にならんだピアノ線は重力に沈む私を引き裂くことなく、均一に、厳密に、支持する堅い墓石の下に、もろく、白い、饅頭が三つ等間隔にならんだピアノ線は海水を排除したその質量分だけの浮力を、均一に、厳密に、受けながらも沈んでゆく太陽は、赤く、強く、たなびく雲を染めている夏は遥か異国に厳粛なる冬を贈り、青い海は虐げられた質量分だけの浮力を、均一に、厳密に、ピアノ線を支持する海水は遠目に青く、空を思わせる蒼はもはや紅く、石工の打つ金槌の音は止み、ただ、等間隔にならんだ残響に、ピアノ線を震わせた石工は閉口する石の意思をはかりかねて、絶句を余儀なくされた異国の人々が声をあげ、ピアノ線は海底で、均一に、厳密に、水圧を受けながらも、果敢に振動する真空に、深海魚は目を退化させた幸福を、知りもせずに享受する私は等間隔にならんだ墓石の上を、軽々と渡る渡り鳥に手紙を託す少年は、監視の目を潜り抜け、海へ沈んでゆくのだろう。

不信 mixiから転載

04 28, 2012 | 雑記

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今日は久しぶりに駅から自宅まで歩いて帰った。
暇でしようがなかった頃はよく目的もなく出かけては、今日のように白い縁石の上をふらふらと、考え事をしながら歩いていた。最近そうしなくなったのはきっと目前の問題の片が付いたので生きることへの疑問から遠のいたからだろう。
考えることと生きることはやはり本質的に異なっている。理論と実践。
熟考の末に何か正しいらしい答えが出たのだとしても、実践の場ではあえて正しくない選択をすることもできるのだ。実際、僕の場合そんなことはしょっちゅうある。

何をこんなにつっぱっているのか。
自分でもわからなくて笑えてくる。
ただ、口惜しい。学校にいる連中の不可思議なほどに世界を信頼しきった、甘い考えに触れるたびに。何の抵抗も示さない従順さを知るたびに。こんな奴らの中に泥んでいきたくはないと思うのだ。
自己責任なんて言葉を素直に使う奴は、世間知らずという他ない。よくわからない力に本人も気づかないまま潰されていく、沢山の人々を知らない。いかに経済的な弱さが学のなさに直結しているのかを知らない。成績は朝食で決まっているわけではないのだ。

自分がそうではないということを主張しようと、近頃はそればかりな気がする。

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