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摩耗する花火

08 07, 2012 | 雑記

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闘うことなくただ従順にあったのでは、管理はますます厳しくなり、あるべき自由すら奪われてしまうことは明らかだろう。現に北大の文系棟では、学生は基本的に講義以外で教室を利用することができない。仲間で少し集まったり、ゼミを開いたりすることも許されていないのだ。

それにしても、今回は少し違う。花火をしていたことを注意されはしたが、あの警備員は事実上許可を出したようなものだった。目をつむると言ったのだ。
にもかかわらず、そんな些細なことに、学生は「ひよった」のだ。
逆らったら大変なことになるかもしれない。(この程度ではならないが。)
ここは大学だ。学生が花火をして何が悪い。あんなところで多少騒いだって誰も迷惑はしないし、小火も出まい。

法律で定められていても、行政の裁量によって、事態が先鋭化されることが防がれるという場合がある。これは非常に重要な機能だ。世の中におこることをいちいち原理主義的に裁いていたのでは息苦しくてしょうがない。
今回もそのケースで、大学とて花火程度のことをいちいち取り締まるつもりはないのだろうと思う。たとえ規則では禁止されていても、だ。

なのに、学生がひよる。
こんなことしたらダメかもしれない。あんなことするのもダメかもしれない。なんて思いを巡らせ、自分自身をどんどん不自由にしていく。自分で自分を管理し、制限していく。
結果的にのこる自由とは何か。それは消費者的選択のみである。許され、提供されるものの中から選ぶことだ。

大きな勘違いがあるのではないか。
私たちは許されているからそれをするのか?
椅子に座ること、酒を飲むこと、くしゃみすること、考えにふけること。これらは許されたからなされるのか?
違う。これらはただ禁止されていないのだ。禁止されていないからするのだ。

萎縮してはならない。いいのかどうか判らないなら、とりあえずやってみて、怒られるかどうか試せばいい。ついでにちょっとぶつかって、その規則が無意味なものでないか吟味すればいい。なんの根拠もない規則なら、それはただ自由を奪うだけなのだから、廃止するように求めるのだ。

情けない。
保身に必死な自称ネオリベラリストは今後のキャリアと今ここで花火を強行することを秤にかけ、今後の人生のほうが重いと主張した。そりゃあそうだろう。だが、そもそもそんな単純な秤の使い方が乱暴にすぎるのではないか。
こんな単純で乱暴な思考法を疑問も抱かず用いる奴は、同じように単純な考え方で弱者を虐げることを厭わないだろう。要は、これだから自称ネオリベラリストなんかになるのである。
議論をふっかけてやろうかと思ったが、そうしなかった。これは大人な自制心か、あるいは関係や空気を崩してしまうことに、俺がひよったのか。どっちだろう。

ともかく、疲れる。めんどくせぇ。
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