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冥土文書

12 05, 2009 | 雑記

2


追悼文を聞きながら、

経を聴きながら、

涙すら流さないことは不思議なことだろうか。

いったい誰が生きていたのか知っているのか。

その死を嘆くなんて、奇麗事は抜かしてくれるな。 

嘆くとしたら自分の未来だ。


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« 片思い タイトルなし »

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2 Comments

そういえば
この前の祖父の葬式では泣かなかった
忌野清志郎やマイケルジャクソンが死んだ時は泣いたのに

だいたい、
「死んだ」ってこと自体、誰かに知らされないと分からないのに
死ぬってそんなに特別なことなのでしょうか、
死ぬって、生きるってことと何が違うのですか。

by 玖瓦むむりく | 12 06, 2009 - URLedit ]

返信

>>むむりくさん
忌野清志郎は残念でした。
あんな感じの人は他に無いですよね。真似できないものがある。

僕も昨年祖父を亡くしましたが、悲しいというのとは少し違った感じでした。何かの感慨はありましたけど。

何処までが生きてて何処からが死んでいるのかなんて線引きはできないですしね。
死亡時刻はお医者さんが甦生をあきらめた時刻ですから。
でも、社会のシステムが死の存在を組み込んで作られているので、便宜上どこかで恣意的ではあるけれど線を引かなければならない。
死は存在と非存在との境目だから、宗教無くして見定めるのは難しいでしょう。だから、仏教なんてなんとも思っちゃいない日本人がいまだに葬儀にはちゃんと坊さんを呼び続ける。

死んでから暫くたった肉体と、生きている人間とでは明らかに違う。けれど、霊的な判断を除いてしまえば、その二者は年をとるのと同じように連続したものでしょう。
僕は、ロマンは無いけど、二者を分かつのは死と生という言葉のみだと思います。

by R.ogawa | 12 07, 2009 - URLedit ]

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