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11 17, 2011 | 考え言

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Is there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it?


完全な確実さを求めても得られそうにない。
デカルトの方法は結局、主観から客観的な認識を得るには神を必要とし、それは現在の僕らにはとうてい納得のいくものではない。さらにはあの有名な<我>もそれが本当に「我」であるのか、というようにはデカルトは疑わなかったのだ。その<我>は後にニーチェによって、フロイトによって「それ(es)」と呼ばれるようになった。「我」ではなく。
現象学は主観-客観の図式を乗り越えようとした。方法的にデカルト的な<我>から世界を見ることで、いわば観察することの新鮮さを根拠に認識することの意味を主張したのだ。真理は得られないまでも、我々は何かを知ることができると。
しかし、僕はこれに納得がいかない。すっきりとしない。何故か。原因は多分わかっている。それはすべての理屈は言葉だからだ。発語した瞬間、もうそれは認識なのだ。疑いうる私の認識なのだ。認識された認識になってしまうのだ。認識について疑っているのにその答を認識するというのは奇妙じゃないか。
僕が世界を見て、触って、新鮮に世界を感じるとき、そこに何の疑いがあるだろうか。あるのはただ新鮮に立ち現れる世界だ。言葉にするからいけない。
そんなことは言葉にした人たちは知っていた。知っていて、言葉にしたのだ。そうするしかないから。言葉になる前の「ほんとう」の見えるところまで、言葉で連れていこうとしたのだ。「ほうとう」は語りえないし、得られないから。

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