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ささやかな拷問

03 25, 2012 | 雑記

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リアルに生きたかった。ここ何年か。ずっと。
360°どこを見てもガラス越しにいるような感覚に囚われていた。乖離というらしい。ひどい人だと自分の背中が見えるのだとか。そこまでには至らなかったが、いづれにしても、原因は現実を拒絶していること。否、拒絶したくなるような現実が原因である。 
しかし、現実なんてものは間違いなく主観的なものであって、気の持ちようで簡単に見え方の変わるものだ。にもかかわらず、長いあいだ僕は何を拒み続けていたのか。
誰かに会うたびに「いま何してるの?」と彼らにとって特に意味もないはずのことを訊かれ続けることだったのかもしれない。
所属や身分を訊かれても用意できる答えは「日本人」だとか「人間」だとかそんなものだけだ。もちろんそんなことを求められているわけもなく、毎度窮した。何かであることをどうしてこんなにも要請されるのか。社会の無駄な部分は排除したいとでも?
僕はアウトサイダーを決め込むことも、バイト生活に身を落とす気にもなれなかった。幸い、それぞれの場合のお手本がまわりにいたというのもある。

欲望とは他人の欲望である、とラカンは言う。
ひとりでいては人並みの欲望すら持てないのだ。人が欲望を持てあましていることを第一の根拠とする資本主義社会に於いてこれは絶望的と言わざるをえない。
両親のすねを目一杯に齧り、予備校に入ることができた。
おかげで、人並みの欲望を手に入れ、大学に入学できることになった。
これからは「大学生」と名乗ろう。
どうだ。これで満足か。ちゃんとそれなりにまともな答えを用意できただろう。精神病院にもおせわになっていない。どうみてもまともな人間だろう。

どうしてわざわざこの息苦しい世界を生きようとするのだろう。多くの人間が誰かを貶めようとしている。自分の自尊心を守るために、弱い奴を探し回っている。
生への盲目的欲求?
それを意識することで苦しみから解放されるのだとショーペンハウアーが書いて、ブッダも似たようなことを言う。
一時期はそれが福音に思えて、目指していたとこもある。しかし、捨てきれなかった。怖かったのかもしれない。そして、生きることを主体的に選択した。どちらが正しいかということとはまったく無縁の、まさに主体的に何の考えもなしに選択した。そしてそれに伴って、何をするにも付き纏っていた疑念の数々を振り払った。疑念の不合理を指摘するのではなく、それを僕自信が消し去りたいと思っているということによって、振り払った。
この普通誰もが行っているであろう行為を方法として僕が受け入れるまでの苦労は多くの人には理解されないだろう。しかし、ここにたどり着く過程で、デネットの「自由は進化する」や伊藤計劃の「虐殺器官」(これは作者がデネットの本を読んでいたためか。)、石原千秋などからヒントを得たことを考えれば、僕はひとりではない。
なぜ生きるのか。
この問に答えられないとして、何の不都合があるというのか。僕らは既に生きている。

もう悩むまい。
考えることはこれから先、いくらでもあるだろう。だが、悩みはしない。

良くも悪くも感謝しようと思う。
反省する機会を与えてくれた内閣府と、話を訊いてくれた宮崎教授。自分について考える視点をくれたフロイト、中島義道(反面教師)。デミアンに救われ苦しめられたのでヘッセにも。沖縄で助言をくれた煩いババアと、那覇で買ったダニエル・C・デネット。その機会をくれた父。導いてくれた伯父。僕を否定しなかった母。そしてその他大勢の僕の幸福を願わない人々に。



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