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Aphorismen zur Lebenswaisheit

03 29, 2009 | 雑記

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生きることについて私は懐疑的だった。
人間の生存に対して、理性的な理由をつけられないためである。意味づけられない以上は人の生存は動物的な、本能的な欲求によるものだと考えるのが普通だ。
だが、その考え方は虚しい。それで、人生の無意味から逃れようと散々悩んできた。
そのうちに気がついた。虚しさとは、自身の時間の有限さ、死によって起こるのである。だが、本当にそうだろうか。人の中には宇宙があるではないか。いや、むしろ人が宇宙である。そこは時間は無く永遠であり、空間もなく無限であった。虚しさなど感じることは無かったのである。
しかし、これだけでは終わらなかった。この問題に無意識に別の意味を持たせていたのだ。
人生の指針である。
人は多様に生きているが、僕は有意味な目的を持って生きたい。と、思っていたのだ。
この「目的」という語の中に生き方を選ぶための指針も含まれていたのだ。
確かに自身は永遠であり、虚しくなどないが、現実問題として進路の選択を迫られていたのだ。
如何に生きるべきか。
いや、人間に義務などというものは存在しない。なぜなら、人生は無意味なのだから。
ならば、面白く生きようと思う。
人は自分の欲したものを手にしているとき喜びを感じるものだという。アランの「精神と情熱とに関する八十一章」に書いてあった。これは正しい。
だから、どんなことであっても、大抵はそれを欲する立場に立ってみれば面白くないことはないのだ。
では、進路としてはどれを選ぼうとそれなりに楽しむことができて変わりないか、なら結局どれを選べばいいのか分からないではないか。
いやいや。確かに、殴られることを欲してみてそれなりに楽しむことができるかもしれない。だが、沖縄の綺麗な海で泳ぐことも欲したとき、どちらがより面白いかということは明白である。(私は泳ぐ方が好い。たまに殴られる方を好む人もいる。)
私はより欲しているものを選ぶのだ。
ただし、これは倦怠などを意味したりはしない。確かに眠りたかったり、やりたくないこともある。しかし、単純にそこに任せた倦怠を真には欲さないのだから。
欲求は幸福のための道具であり、欲求は理性によって制限されなければならないのだ。なぜなら単純に欲求に任せた動物的生活を人は幸福と呼べない。
このことから、また、決して手に入らないものを欲求してしまったとき、それもまた理性によって抑えなければならない。なぜなら、それは幸福的でないのだ。

補足:
欲求が理性の下にあり、理性によって制御されるものならば、「幸福への欲求」のためにそれをを理性を用いて獲得するというのは何かおかしいくはないか、と思われる方がいるかもしれない。
もっともである。
だが、人が理性を働かせて考えるとき、その合理性とは何を基準にしているだろうか。何か二つのものを選ぶとき、その時はどちらが善いかとか、美しいとか、幸福的かとか、考えているのではないか。
幸福とは真善美のように、ただ志向される、他のものとは一線を画したものなのだ。

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- Comments
2 Comments

 お久しぶりでございます!
 む、難しい…!馬鹿でごめんなさい!!でもなんだかR.Ogawaさんが希望を抱いてるのかな~と何となく感じました!!もしそうならそれは喜ばしいことです!!
 人生は楽しいのだと思います!考え込むと難しくなるけれど。本当に人生を疑う人はたぶんこの世にもういないのだろうな、と思います。
 なんて!頑張ってください!いえ、楽しみましょう!
 それでは~。

by 殺人坂硝子 | 03 31, 2009 - URL [ edit ]

コメントありがとうございます。
お久しぶりです。
お互い楽しみましょう。

by R.ogawa | 04 01, 2009 - URL [ edit ]

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