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擬人化

04 03, 2012 | 雑記

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かそけしうたの夕日さんが当ブログ雑記篇の擬人化キャラクターを製作してくださいました。

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180°どこから見てもかわいいですね。


反省

03 30, 2012 | 雑記

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なんども同じことを書き直すということは、まだ自分のなかでちゃんと言葉になっていないということなのかな。
だから、他人の言葉を借りよう。

「哲学とは生きることではなく知ることである。」澤瀉久敬



Re Re ささやかな拷問

03 28, 2012 | 雑記

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前回の記事と同じものをmixiにもアップしていた。
mixiの方ではコメントをいただいて、それに対して返信を書いた。これがなかなか長文になり、これはまた拍手をくださった北落さんへの返信にもなるかもしれないと思ったのでここに転載しておくことにする。



確かにみんなどうせ死ぬだろうけれども、それでも僕は、今は生きてみることを選びました。そのうち死を選ぶ時がくるかもしれないけれど、その時はその時の判断に任せます。
ニヒリスティックな考えが後をついて回るけれども、それは意識的に断ち切る。思考停止だと友人に言われもしましたが、処世術として、一つの生き方として僕はアリだと思う。正しいとか正しくないとかではなくて、これは僕個人の単なる選択だから。文句を言われる筋合いはないのだと。
乗り越えるのではなく、切り捨てたのです。
ただ、これはたぶん両刃の剣で、切り捨てつづけた結果、獣が一匹。ということにもなりかねないけれども。
懐疑的な精神が、もちろん哲学的思索には不欠だけど、生きるのには邪魔なことが多い。世界の存在を疑いながら生きるのは難しいしいけれど、証明してやれるのは証明することが原理的に不可能だということだけ。なら、信じてしまえばいいのではないかと思ったんです。
デカルトの懐疑は「方法的懐疑」でした。彼もそんな疑いを抱えたまま生きていたわけではないはず。また、省察にあったような証明を本気で書いていたとも僕には思いがたい。やっぱりデカルトの懐疑はあくまで学問の方法としての懐疑だ。それは生きる方法としての信仰というものを示しているとも思えます。
もやもやとしているものを、そのもやもやごと切り捨てる。
これがいいことかどうかはわからないですよ。でも、時間は無限に与えられているわけではない。
フレーム問題という、ロボット工学の問題があります。自律思考するヒューマノイドにどこまで考えさせるか、その思考のフレームをどのように設定するか、という難題です。フレームが無いと無限に思考し続けてしまう。たとえば、机の上のコップを持ち上げるにしても、そのコップが実は机とくっついていて、持ち上げるとその揺れで燭台が倒れてしまうという可能性はある。でも実際にはそんなこと考えなくてもいいから、じゃあ、そんなことは考え無いようにプログラムしてしまうと、これはダメなわけです。これじゃあ人間の知能と全然違う。人間はどこまで考えるかも自分で決めなきゃならない。自動車を運転するときなんかは人は無意識にこんな処理をたくさんしているわけだけど、理性によって、言葉によってフレームを設定しようとするとこれまた無限の時間がかかる。それを防ぐためのフレームなのに、フレームを作るのにもまた無限の時間がかかってしまう。どこまで考えるのが最良か、などというのは結局のところ現実的には不可知の領域のものなのです。
僕の言う悩みというのは、元を辿れば、だいたいこういうところから出てきていて、だから、悩まずに決断してしまう。
それでもやっぱり悩みたくなるけれど、それは意思で黙らせる。こんなのは合理的思考とは呼べない、いわば悩みです。
ウィトゲンシュタインの言うように、語りえぬものについては沈黙せねばならない。ちょっと話は違いますが言いたいことは似たようなものです。
たまには不可知の淵を覗いてみるのもいいかもしれないけれど、それに囚われない。そう生きようと思います。

僕は自分の話しかできません。だから、こんなのがそのままむつみんさんに応用できるとも思いません。けれど、なにか役にたてば幸です。

ささやかな拷問

03 25, 2012 | 雑記

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リアルに生きたかった。ここ何年か。ずっと。
360°どこを見てもガラス越しにいるような感覚に囚われていた。乖離というらしい。ひどい人だと自分の背中が見えるのだとか。そこまでには至らなかったが、いづれにしても、原因は現実を拒絶していること。否、拒絶したくなるような現実が原因である。 
しかし、現実なんてものは間違いなく主観的なものであって、気の持ちようで簡単に見え方の変わるものだ。にもかかわらず、長いあいだ僕は何を拒み続けていたのか。
誰かに会うたびに「いま何してるの?」と彼らにとって特に意味もないはずのことを訊かれ続けることだったのかもしれない。
所属や身分を訊かれても用意できる答えは「日本人」だとか「人間」だとかそんなものだけだ。もちろんそんなことを求められているわけもなく、毎度窮した。何かであることをどうしてこんなにも要請されるのか。社会の無駄な部分は排除したいとでも?
僕はアウトサイダーを決め込むことも、バイト生活に身を落とす気にもなれなかった。幸い、それぞれの場合のお手本がまわりにいたというのもある。

欲望とは他人の欲望である、とラカンは言う。
ひとりでいては人並みの欲望すら持てないのだ。人が欲望を持てあましていることを第一の根拠とする資本主義社会に於いてこれは絶望的と言わざるをえない。
両親のすねを目一杯に齧り、予備校に入ることができた。
おかげで、人並みの欲望を手に入れ、大学に入学できることになった。
これからは「大学生」と名乗ろう。
どうだ。これで満足か。ちゃんとそれなりにまともな答えを用意できただろう。精神病院にもおせわになっていない。どうみてもまともな人間だろう。

どうしてわざわざこの息苦しい世界を生きようとするのだろう。多くの人間が誰かを貶めようとしている。自分の自尊心を守るために、弱い奴を探し回っている。
生への盲目的欲求?
それを意識することで苦しみから解放されるのだとショーペンハウアーが書いて、ブッダも似たようなことを言う。
一時期はそれが福音に思えて、目指していたとこもある。しかし、捨てきれなかった。怖かったのかもしれない。そして、生きることを主体的に選択した。どちらが正しいかということとはまったく無縁の、まさに主体的に何の考えもなしに選択した。そしてそれに伴って、何をするにも付き纏っていた疑念の数々を振り払った。疑念の不合理を指摘するのではなく、それを僕自信が消し去りたいと思っているということによって、振り払った。
この普通誰もが行っているであろう行為を方法として僕が受け入れるまでの苦労は多くの人には理解されないだろう。しかし、ここにたどり着く過程で、デネットの「自由は進化する」や伊藤計劃の「虐殺器官」(これは作者がデネットの本を読んでいたためか。)、石原千秋などからヒントを得たことを考えれば、僕はひとりではない。
なぜ生きるのか。
この問に答えられないとして、何の不都合があるというのか。僕らは既に生きている。

もう悩むまい。
考えることはこれから先、いくらでもあるだろう。だが、悩みはしない。

良くも悪くも感謝しようと思う。
反省する機会を与えてくれた内閣府と、話を訊いてくれた宮崎教授。自分について考える視点をくれたフロイト、中島義道(反面教師)。デミアンに救われ苦しめられたのでヘッセにも。沖縄で助言をくれた煩いババアと、那覇で買ったダニエル・C・デネット。その機会をくれた父。導いてくれた伯父。僕を否定しなかった母。そしてその他大勢の僕の幸福を願わない人々に。



些細な拷問

03 24, 2012 | 雑記

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現実の孤独の中で生じた合理的な疑い。
この広い宇宙で、よりによってこの住宅地の、この家の六畳間で。
自分以外に誰かが本当に存在しているのか。
理屈っぽい孤独。
本棚とPCとラジカセがあるだけのこの小さな世界で、新しいことなど何もない。言葉の作る孤独が現実味をもって感じられたのも無理はない。
僕はひたすら問いつづけていた。
世界が実在する根拠。
しかし、明らかになるのはその証明の不可能性だけだった。

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